デレメンデーレからしばらく東に進むとギョルジュクの町に入る。海軍基地の西側で横ずれ断層が陸から海に入っているのが確認できた。これは3.1 で述べたとおりである。
海軍基地を迂回してまた水没している地域に入った。先の地盤工学会のレポートによるとこの地区はカワックルという所らしい。海軍基地の敷地に接し て、東側の水際が公園になっている。この公園から東側がずっと水没している(図-4.2.1、写真-4.2.1)。ただしここからの水没はこれまでの海岸 がばっさり落ちるという形態ではなく、東に向かって徐々低くなり、奥行きが深くなっていくという形である。我々は最初に水没を見た地点からこのギョルジュ クの地点の間のすべての海岸線を踏査したわけではないが、先の横ずれ断層が見られた地点周辺からここまでは水没はなかった(ボアジッチ大学等のインター ネットの画像を見ても海軍基地は水没していないようである)。
先の公園からやや東の地区にいってみると、水没はかなり内陸に及び、相当な沖合い(200m程度?)にプールのある建物が水没しているのが見える (写真-4.2.2)。また、より内陸側の遊園地も水没し、陸上競技場のすぐ近くまで及んでいた(図-4.2.1参照)。陸上競技場のスタンドのすぐ裏は 段差になり(競技場側さがり)、亀裂が入っている。競技場の西半分は水につかっているので、液状化によってスタンドの部分が沈下しているようであった。た だし、噴砂は見られなかった。
図-4.2.1 ギョルジュク・カワックル地区の水没・段差の状況
写真-4.2.1 ギョルジュク・カワックル地区海岸の水没- 公園から東を望む
写真-4.2.2 ギョルジュク・カワックル地区海岸の水没- プールの建物
競技場の奥の新しい工場の敷地が若干被害を受けていたので、行ってみた。そこで、なんともよくわからない光景に出くわした。工場敷地の東側の一部 がばっさり落ちている(写真-4.2.3)。しばらくはどのような現象が起こったのか理解できず頭をひねっていた。しかし、裏へ回ってみて、道路が同じよ うに落ち、しかも段差がその先へも続いているのを見てようやく理解した。まさしく断層、海側落ちの正断層である。もとは水平であったろう地域が断層を境に 完全い段違いになっている。両側の地区は何事もなかったように水平である。段差は約2mあった。もう夕方が迫り、車の待っている公園からもだいぶ離れてし まったが、この断層をしばらくトレースすることにした。
写真-4.2.3 ギョルジュク・カワックル地区の工場の段差
先ほどの工場の地点から川をわたったところで道路がふたたび寸断されていた(写真-4.2.4)。この断層はこの先でモスクの真下を通過する。モ スクは崩壊していたが、断層から数十cmkさ1m程度ずれているミナレット(尖塔)は無事たっていた(写真-4.2.5)。この段差はモスクを過ぎると 50cm程度になり、そのすぐ先で消滅した。この段差はここで雁行し、海よりに別の段差があった。この段差はモスクから20m程度先のフォードの工場(建 設中)門の手前でやはり2m程度となり(写真-4.2.5)、工場の先まで続いているのが見えた。
ここまで見て、ほぼギョルジュク周辺の水没が理解できたような気がした。横ずれである主断層とやや角度をなして副次的な陥没が現れたのではない か。横ずれに伴い、ずれの45度の方向に引っ張り力が発生、陥没が起こった(角度はよく合う)、あるいは横ずれ断層が雁行する際、横ずれ断層間の地域が沈 下するが、これにあたるのかもしれない。いずれにせよ、地表に明確に現れた段差(これを断層といってよいかどうかよくわからない)を境に海側の地域が広域 的に少なくと2m程度沈降、その結果かなりの地域が水没したのではないかとの結論(もちろん仮説)にいたった。ギョルジュクより西側のデレメンデーレ等で 見られた海岸の沈降は、ギョルジュクの陸上に見られた段差がちょうど海際に現れたということかもしれない(海底地すべりという可能性はかなりある)。
写真-4.2.4 ギョルジュク・カワックル地区の段差−約2.4m
写真-4.2.5 ギョルジュク・カワックル地区の段差−後ろに崩壊したモスクと塔が見える。すぐ後ろがフォード工場入り口
ここまで考えて、我々は今、イズミット湾あるいはマルマラ海が形づくられる現場に立ち会っていることに気がついた。今回の地震を起こした北アナト リア断層は、東のアドパザールからサパンジャ湖を経てイズミット湾に入るが(今回もまさにこのように動いた)、活断層は湾をはさんで両側に存在する。北ア ナトリア断層は横ずれ断層であり(かつては異なっていたとの説もある)、長い、地質的な年月を経て、横ずれ(すなわち地震)が繰り返され、徐々に断層間が 陥没、湾になっていったものと考えられる。このあたりの推論は素人考えであるがほぼあっていると思う。海岸線も断層の動きによって形成された部分が多いで あろう。
北アナトリア断層がどのくらいの頻度で動いてきたのかよく知らない。仮に1000年に一回今回のような活動をしてきたとすると、千年で2mの沈降 であるから、1万年では20mの沈降になる。湾が形成されるのはそれほど長い時間を要するわけではないことがわかる。ちなみに陸上部の段差は2m程度で あったが、海底部は10m以上沈降しているとの情報もある。5階建てのホテルがほぼまるごと海に沈んでいてもおかしくはない。
ここまでが9月8日の調査である。もう日が沈んであたりは暗くなってきていた。この段差を追うべく、調査の最終日である9月10日(金)に再度こ の沈降を追い、さらに先まで踏査してみた。
9月10日は海岸沈降の始まるところから調査をはじめ、8日と同じルートをたどった。調査メンバーには8日に同行していない人もいたためである。 フォードの工場にたどり着いたのは昼過ぎであった。残念ながらフォードの工場内には入らせてくれない(もっともあまり真剣に頼まなかった)。工場の西側の 道を海まで行った。ここの水没しており、奥行きはかなり大きくなっていた。畑や林が枯れていた。
フォードの工場を回りこみ、果樹園近くにある、送電鉄塔の現場を探した。鉄塔の真下を断層(段差)が横切っている個所でインターネットに写真が出 ている。果樹園に不法侵入したが、ここのおばさんはやさしく、木からももをちぎって食べていけという。のども渇いていたので、ありがたくご馳走になる。も もばかりでなくプルーンももいでもらう。
送電鉄塔はフォードの工場に電力を供給するためのものと思われるが、4脚(独立)の基礎のうちの1脚が段差にかかり、基礎が引き抜けたようになっ ている(写真-4.2.6)。しかし、鉄塔全体の変形はごくわずかで、傾斜しているようには見えない。この脚上の一部の部材は塑性化して変形していたが、 鉄塔としての機能は十分保たれているようであった。
鉄塔のすぐわきが川になっており、この川を段差が横切って、その部分が滝になっていた(写真-4.2.7)。さらにこの段差は林の中に入り、東西 に伸びる主要な道路のすぐ近くまで追跡できた。最後は急激に北側に回り込むような形で消滅していた。
この段差が消滅したので、湾岸の水没もなくなっているはずと思い、この2kmほど先の道を北に入り海まででてみた。ところが、ここもまた水没して いた。どこまで水没しているのか、確かめたかったが時間がなくあきらめざるを得なかった。イズミット湾の最奥部は水没していない。どこが、どのくらい水没 したのかは非常に興味のある問題だと思うが、トルコ側の調査結果を待つしかないようである。
写真-4.2.6 ギョルジュク・フォード工場裏の送電鉄塔
写真-4.2.7 ギョルジュク・送電鉄塔横の川が滝になっている
ギョルジュク周辺の正確な地図は日本建築学会の報告書に掲載されている。以下にこれを添付するが、断層が最も西側の海岸線とクロスしている個所が 写真-2.1の個所、東側(右側)のBranchと記されている断層線が上で述べた正断層。
Progress Report on Damage Investigation after Kocaeli Earthquake
by Architectural Institute of Japan
Architectural Institute of Japan Reconnaissance Team